ほう、と進は思わず感嘆のため息を吐き出していた。
  さほど大きいとは言えないものの、最低限見積もっても百人は入るであろうコンサートホール。
  その壇上で、衆人の関心を一身に受けているのは一人の女性だった。
  薄暗いホールの中、円形に作られたステージは白い塗装が施してあり、スポットライトが当たり明るくなっている。客の座る位置よりも高くなっており、すらりと立つ彼女の姿が一望できた。
  身長はあまり高くなく全体としてどこか幼さが残っているが、音の魔力なのかそれとも着ているもののせいか、酷く大人びて見えた。
  壇上に立つ彼女の黒いドレスと肩に担がれたヴァイオリンが、一枚の絵画のように進には感じられた。ヴァイオリンが時に静かに、時に壮大な音色を奏でるにつれて黒いドレスが揺れる。さらに耳に届いてくる優しい音色がBGMになって、えもいわれぬ美しさがあった。
 目と耳を楽しませる。極上の音楽とはこういうものか、と進は勝手に納得していた。
 この瞬間まで、演奏会とかコンサートといった類は基本的に眠くなってしまうものだと言う印象が、進にはあった。
 彼が高校生の時の課外授業で鑑賞したジャズコンサートや、職場の同僚に強引に連れられて行ったオーケストラなど結局睡魔に襲われ、眠らずに最後まで聞けていた試しが無い。
 絶妙に柔らかい椅子と、微妙に暗い照明が眠気を誘うのだ。
 ただ、今日だけは違っていた。
 今日は特別な日であった。進にとっても、美しい旋律で聴く者を魅了する彼女にとっても。
 進はじっと、ステージの上を見つめていた。目が離せない、とはこういうことを言うのだろう。数瞬遅れて、自分が瞬きをしていないことに気がつく程だ。
 進の位置からはどんな表情をしているかまでは分からないが、恐らく目を瞑り、自分だけの音の世界に入り込んでいるんだろう。
 大きくなったな、と、進は彼の姪にしてこの場のの主役、『深谷友華』の姿を見つめながら思った。
 
  改めて思い返せば、彼女が誕生したのは進が大学生の頃、実に十年以上前になる。彼よりも四歳年上の姉の子どもとしてであった。
 姉の『深谷由梨』が彼女を連れてよく実家に戻ってくるため、進も彼女と一緒にいる機会が自然と多くなっていた。
 赤ん坊の頃からくりくりとした瞳が印象的で、とても人なつっこい娘だった。そしてそれと同時に最大のトラブルメーカーでもあった。
 進が思い返す限り、彼女が発端となった騒動は数え切れない。 
 何にでも興味を示すために、放っておくと例えば火の元にさえも嬉々として近づいて行ったりしてしまう。進も姉夫婦もかなり苦労をさせられていた。
 その印象が強くあるために、余計に感慨深い心持ちになる。
  彼女は今年で十五歳になる。十五歳にして、コンサートホールで大勢の前でヴァイオリンを演奏をしている。
  彼女はいわゆる天才なのかも知れない、と進は響く音色を聴きながら思う。
  彼の姉はまだ友華が小さい時から何か音楽をやらせたい、と常々言っていた。姉夫婦のパワーバランスは当初から妻である由梨の方に傾いていたので、その強い意向に夫も押し切られたような形だった。そうなると彼女には先見の明があったということだろう。
「彼女には才能があります」
 彼女が通っている音楽教室の先生の弁だった。それを嬉しそうに話す姉から聞いた時は、大げさじゃないのかと進は思ったものだが、現実というのはわからない。
 そして彼女は見る見るうちに実力をつけていった。進は音楽は専門外なため、細かいことはよくわからないが、その形がこの場なのかもしれない。
 進はじっと、彼女を見る。音を聞く、というより見ているのかもしれない。
「友華ちゃんは音楽好き?」
 数年前、何となしに聞いてみた質問だった。思い返せば間抜けな質問だ、と進は苦笑したい気分になる。
  それを聞いた彼女は一瞬不思議そうに眼を丸くした後、うーんと考え込んだ。
「好きっていうか、落ち着く、かな?」
「落ち着く?」
「うん。音を聞いてると、なんだか心が休まるっていうのかな。そんな感じ」
 彼女はとびきりの笑顔でそう答えたのだった。
  それを聞いて、進は妙に納得したのを覚えていた。なるほど確かに、と思える部分があった。
  彼女にとって音とは、あって当然のものなのかもしれない。
  まるで赤ん坊のころに無意識に感じていた母親と父親のぬくもりや安心感に近いものを、音楽に見出しているのだろう。
  進の隣に座る、姉が第一の羊水であるなら、彼女にとって、音は第二の羊水なのだ。
  一際長い音色の後、友華はヴァイオリンを下し、きれいな姿勢で一礼した。そして、すっと向きを変えて、進達が座る親族席を向き、もう一度礼。
  周りの観客が割れんばかりの拍手を送る。進の隣の姉夫婦は周りに負けじと全力で拍手を送る。見ていると手が痛くなりそうな勢いだった。
  彼女はその様子に気がついたのか、こちらに顔を向けてヴァイオリンを持った手を上げ、軽く合図を送ったように見えた。
  進はそれに笑顔を返した。彼女に見えているかわからないが、そんなことはどうでもよかった。
  その時の彼女の顔は、太陽のように明るく、そして海のように安らかな顔をしているんだろう。腕に収まるくらい小さかった頃から、ずっと見てきたような。
  ――ずっとこの先もそれを失わないで。
  そう思いながら、進は周りに負けないような盛大な拍手をこの場のヒロインに送った。

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