〜『スニーク・アップ・ザ・スニーカー』第五話〜


1.

 思わず隣に立つラトフの顔を仰ぎ見て、ハンスは混乱していた。
 ほとんど感情と言える物は読み取れない、まっさらな表情。まるで傘をささずに雨を受け入れているような、達観した顔。目にかかる程の長さがある金の前髪が、その顔に影を落とすようだった。
 まるでそう言われるのが当然であるかのように、顔の筋肉一つ動かしていなかった。
 ハンスは激しい違和感に襲われた。こんな顔をするラトフは、彼の記憶の中には存在しない。
 ――何でだよ……。
 負け犬であると、何故受け入れるんだ。何故、何も言い返さないんだ。ハンスは思わず歯噛みした。
「あ、か、彼は私が呼んだのです。仕事を頼みたいと……」
「ふぅん……そうなのか。まぁ、あまり期待できないだろうがね」
 アリソンの焦りの見える弁解を、ユベールは鼻で笑った。その行動、言動には明らかに侮蔑が満ちていた。広間を剣呑な雰囲気が包み込んでいく。
 そのユベールの声に一早く反応したのは、言われた当事者のラトフでは無く隣に立つハンスだった。
 眉根を寄せて目の前の男を睨みながら、一歩踏み出ようとした。
 怒りに頭に血が上り、熱くなる。ざわつくような感触に、体全体が沸き立っていく。
 しかし突然、ぐっと肩を掴まれ反対方向に引っ張られた。
 勢い余って後ろにのけ反りそって転びそうになるが、足を踏ん張って何とかこらえた。そして、反射的に肩越しに後ろを睨みつける。
 すると、彼の肩を茶色い厚手のコートを着た、アニーの腕が掴んでいるのが見えた。
「何すんだよ……!」
「馬鹿! あんたあの人が誰だかわかってんの!?」
 焦ったような顔をハンスの耳に寄せ、アニーが囁くように言う。
「知らねぇよ」
「あの人はね、『ユベール・プランケット』」
 誰だそりゃ、とハンスは呻くように呟いた。
「今最も勢いのある財団の一つ、『プランケット』財団の長なの! 政府も恐れる大物ってやつなのよ! 手出したらとんでもないことになるから抑えなさい!」
 アニーは何処か必死さに滲む声で言う。最初は囁き声だったはずが、だんだんと力が込もって普通の音量へと戻ってしまっている。
 『プランケット』という名ならハンスも耳にしたことはあった。
 ハンスは新聞をあまり読まないせいで情報には疎いが、マスターや秘書が噂していたのを、なんとなく聞いたことはある。
 それによれば、最近の台頭ぶりが凄まじい財閥なのだと。そして、その裏には無数の後ろ黒い噂が付きまとっている事も。
 だが、ハンスにとって、その情報のどれも尻ごみする理由にはならなかった。
 目の前で、ギルドの仲間が負け犬呼ばわりされている。相手が誰であろうと、恐れ等は無い。
 ハンスはユベールを敵意を込めて一瞥する。
「……相手が誰だか分かったなら下がりたまえ。無粋な真似をする前にね。全く、便利屋というのは気性が荒くていけないな」
 ユベールは面倒くさそうにハンスに向かってそう吐き捨てると、ゆっくりとラトフの方へ長い足を踏み出した。
 彼の言う『負け犬』の下へ。
 ラトフはその様を微動だにせずに真っ直ぐ見詰めている。
「まだアリソン氏……いや、アーデンロード家に関わり合いを持っていたとはね」
「……あんたの事は、よく覚えてる」
「ふん、だろうね。彼女の元婚約者として会ったのだから」
 印象は強かっただろう、とユベールは嗤う。
 ――アーデンロード? 婚約者?
 それを聞いた、ハンスの頭に疑問符が浮かぶ。
「気に食わない野郎だってのは、覚えてるよ」
「私もだ」
 未だにハンスの肩をがっしりと掴むアニーも、目を丸くしてその会話を聞いていた。彼女もハンスと同じように、ラトフとユベールの二人が交わした会話の内容に疑問を感じているのだろう。
 ――彼女って一体誰だよ?
 二人の混乱を余所に、ラトフとユベールを包む空気は緊迫感を増していく。ユベールはその距離数メートルの所まで近づく。
「彼女が毒を飲み、倒れた時の事はよく覚えているだろう」
 彼は、まるで見たくも無いおぞましい物を思い出した、と言わんばかりに露骨に顔を歪めて吐き捨てた。
「……言われなくとも」
 ――毒だって?
 知らない単語と物騒な情報の応酬に、ハンスは目を白黒とさせる。
「罪滅ぼしのつもりかい? 彼女に関わりある者を助け、それで彼女の役に立ったかのように満足を得る。下賤だな……」
「何だって、いいだろう」
 ラトフの声の調子が、初めて揺れた。そうハンスには感じられた。
 今まではあの男がいくら侮蔑的な色を滲ませて言葉をぶつけても、覇気のまるでこもっていない、平坦な調子の言葉を返すだけだった。
 それが、変わったようにハンスには聞こえた。まるで熱を帯びたように。
 思わず、アニーと目を見合わせる。彼女も同じことを考えているのだろう、とハンスは直感した。
「惨めだな……」
 ユベールが、何処か憐みを込めて言った。
 ハンスの身体が総毛立つ。怒りの神経を直接撫でられたかのように、不快感と憤りが体中を一気に駆け巡った。
 もう我慢の限界に達しようとしていた。思わず、思いきりユベールに向けて一歩踏み込もうとした。
「君も、彼女も」
 しかし、ハンスの動きは阻まれた。
 彼の視界の端で、影が動くのがかろうじて目に入り、思わず足を止めてしまう。
「……もう一度言ってみろよ。あいつが……『エリノア』が、なんだって?」
 ラトフが、低く鋭い口調で唸るように言う。まるで、狼が得物を威嚇するが如く。
 ユベールの眼前で、リボルバーの銃身を突きつけながら。

 


      2.


「てめぇに、あいつの何が分かるんだ」
「君にも、分からないだろう」
 二人は射抜くような視線と言葉を交わす。
 その瞬間、ハンスを含む広場にいた人間数人は、一斉にそれぞれの行動に出た。
 銃を眼前に突きつけられているにも関わらず、全く動揺を見せずに飄々と立っているユベール。そして彼を睨みつけながら、黒いグリップを握るラトフ。
 ユベールの連れてきた男達全員が、統制の取れた素早い動きでその周りを取り囲む。そして黒い外套に隠れた腰の剣を一斉にラトフへと向けた。
 ハンスとアニーは反射的に武器を抜き放ち、前傾の姿勢。その黒い男達の作る円に突入も辞さない構えを取っていた。
 しかし、二人の前にまるで強固な壁のように、灰色コートの大男、ベルホルトが立ちふさがる。刃の様な鋭い瞳からの視線がハンスにぶつかり合う。それに負けまいと、ハンスも攻撃的な視線をそれにぶつけ返す。
 糸をぴんと張り詰めたような緊張が、その場を支配する。
「……いいよ君達。武器を下ろしたまえ。どうやら撃つ気は無いらしい。安全装置が外れていない」
 全く落ち着き払った声でユベールが言うと、男達は素直に剣を下ろして腰の鞘に収めた。そしてぞろぞろと散開し、円は崩れていく。
「……やっぱりてめぇは気に食わない野郎だ」
 ラトフははっきりと舌を打ってから無言で銃を下ろし、コートの裏側に施されたベルトに戻した。
 それを合図に、空間に満ちていた緊張がふっと緩む。
「さて、思わぬハプニングだったが……アリソン氏。そろそろ始めようか一応、急用なのでね」
「は、はい。すぐに」
 ユベールはラトフから離れ、アリソンの下へと歩み寄った。先ほど眼前に銃を突き付けられていた事など気にしていないような、気楽な口調。まるで今日の天気の話題でも切り出すかのような。
 見た目からして、良いところの坊ちゃんという雰囲気のわりに肝っ玉が据わっているらしい。ハンスは自身の中のイメージを修正する。
 アリソンはユベールを後ろに伴い、二階部分に上がる階段へと進んで行った。
 通常の来客なら応接室か、アリソン自身の執務室に通して用件を聞くのだろう。しかし、あの『ユベール・プランケット』が直接来たとなると話は別なようで、特別な部屋へと通す気らしい。
 階段から二階部分に上がり、狭い廊下を直進した所に位置する部屋。一際厳かな作りの扉を、開けて二人はその奥へと消えて行く。
 ハンスはその様子を睨みつけるように見送っていた。
 扉が静かに閉まる音と共に二人の姿が見えなくなる。広間に残されたのは、ハンス達三人とユベールの男達。そして、先ほどの騒動に怯えていた数人の女中だけ。
「おい、お前ら」
 ラトフが突然呟いた。その目はアリソンとユベールが消えた扉を凝視しており、ハンス達の方を向いていない。
「先に外行ってろ」
「え、どうしてよ?」
 アニーが不思議そうに聞き返すが、ラトフは取り合わずに呟いた。
「あの野郎、嫌な予感がしやがる」
 ハンスは黙ってその言葉を聞いている。
「悪いが、あいつから目を離す気になれねぇ」
 ラトフはそこで一息。
「頼む」
 絞り出すように、それだけを呟いた。
 ハンスは一瞬言葉を失った。しかし、ラトフの鬼気迫る声色や表情に圧倒されたという訳ではない。ただ、その彼の様子が鮮烈だったのだ。
 ラトフとはかれこれ二年程一緒に便利屋をやってきた。だが、その間彼からここまで真剣に頼まれる経験は無かった。それどころか、他人に対しここまで真摯に頼み込む姿などついぞ見たことがない。
 それを見て、ハンスは深く頷いた。
「……分かった」
「ハンス?」
「行くぞ、アニー。外見て来よう」
 ハンスは言って、アニーの右手の袖を引っ張るように玄関まで歩きだした。アニーの抗議の声を聞き流しながら、ドアの前へ。
「……悪いな」
 ラトフの声が背中越しに聞こえて来る。ハンスは黙ったまま左手を軽く振って応え、極寒の外へと足を踏み出して行った。

 


      3.

 屋敷から出た二人は、暫く無言で歩いていた。二人分の靴が雪を踏みしめる音だけが、二人の間に響いている。
 ラトフに言われた目的地、屋敷から南に行った所に位置する空家群。そこへ向かって、二人は未だ降り続ける雪を頭にかぶりながら歩いていた。
「まったく……」
 アニーが口火を切るように、呆れた口調で呟いた。
「一体何やらかすつもりなのかしらね」
「さあな」
「……あんたにも言ってんの」
 相変わらず外に出ている人間はほとんどいない。この寒さならば仕方がないのかもしれないが、何処か虚しさを感じてしまう。
「あいつ、必死だっただろ?」
 ハンスは真っ直ぐ正面を向きながら言った。
「え?」
「『エリノア』って誰だか知らないけど、そいつの為に必死に怒ってた。銃まで出してさ」
 ハンスは真っ直ぐアニーを見据え、言葉をぶつける。
 アニーは二の句が継げず、ただ黙ったままその紡がれる言葉を聞いていた。
「俺はさ……誰かの為に、必死になれる奴は身捨てたくないんだ。絶対に」
 言いながらハンスは先ほどのラトフの様子を思い出していた。
 あのユベールとかいう男は、確かにいけ好かなかった。
 ラトフの事を指して負け犬だとか、下賤だとか堂々と貶しつけていたのを聞き、ハンス自身も頭に血が上ったのも事実だった。
 しかし、決定的だったのはラトフの行動だ。
 ラトフがあそこまで怒りを露わにする相手。そして、そうまでさせた相手。
「あいつが戦おうとしてるんなら、俺も隣で戦ってやらなくちゃいけないんだ」
 ――仲間だからな。
 ハンスは揺るぎない、自信に満ちた口調で言う。
「……」
「だから、俺は止まるつもりは無いぜ?」
 いつの間にか、二人の足は止まっている。
 頭だけでなく、身体が熱い。まだ怒りが尾を引いているのかもしれない。だが、そうでは無い何かが、身体を満たしていくようにも感じた。
 もはや外気の寒さは気にならない。応接室に戻り、暖炉に当たりたいという気も微塵も起きなかった。時折身体に降る雪が冷たく、丁度いいくらいだった。
 ラトフについての詳しい事情は知らない。
 知っている風のマスターや秘書のリネット、旧知らしい執事のアリソンからは何も聞いていない。もちろん、彼自身からも。
 だが、あのラトフの様子に比べればそんなもの些細なことに思えた。
 ハンスを動かす、動機としては十分すぎるほどだった。
 アニーは腰に両手をあて、大袈裟に溜息をついた。それは白い息となって、すうっと雪に紛れて消えていく。そして彼女の小さく端正な顔に、笑みが浮かぶ。
 微笑みという程柔らかくはない。強いて言えば、出来の悪い弟や妹を見守るような、どこか困ったような笑みのようにハンスには見えた。
 唐突に、ハンスは自身の母親を想起した。
「……あんたって変な奴よね……単純そうで、何も考えてなさそうな顔してるのに、何か言うことに説得力がある。今までに、あんまり会ったことないタイプ」
「は?」
 言いながらアニーは一歩踏み出し、ハンスの目の前に立った。手を伸ばせば、互いの顔くらいならば十分に届く距離だ。
「安心しなさい」
 そして、不思議そうなハンスの顔に、一発。折り畳んだ中指をお見舞いした。ぴしんと小気味いい音が鳴る。
「いてっ」
「私も止める気なくなったからね」
 アニーは苦笑して言うと、颯爽と雪を踏みしめて歩きだした。
 ぽかんと額を抑えながら停止していたハンスも、小さく笑ってその後を追った。
 お前も俺と同じか、と呟いて。


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