〜『スニーク・アップ・ザ・スニーカー』第六話〜


      1.

 アニーを引きずって出て行ったハンスの背中を見送りながら、ラトフは思わずほっと胸を撫で下ろした。
 身勝手で、根拠も無ければ信憑性も無い言い分だった自覚はあった。しかし、ハンスは何かを察してくれたようだった。アニーは不満げに納得できていなさそうな表情を隠そうとしていなかったが、それも当然かもしれない。
 だからハンスと組むのはやりやすい、とラトフは思っている。
 お互いの事情に深く介入する事は無い。それでも相手方に厄介事が降りかかれば、最初からそれが当たり前だと決まっているように手を貸してくる。
 さっぱりとしている、というか切り替えが速いのだろう。単純に、難しい事など何も考えず、ただ思った通りに振舞っているだけなのかもしれないが。
 ラトフは、ユベールとアリソンが登って行った階段の傍に立っていた。そして、腕を組みながら手摺に体重を預けて寄りかかる。
 玄関を正面にしたために、部屋を広く見渡すことができた。ユベールの連れてきた男達は壁に寄り掛かったり、中央の椅子に腰かけたりと各々暇を持て余しているようだが、その視線はラトフを監視している事が痛い程に分かった。
 嫌な予感が体中を駆け巡っている。焦りか、それとも逸りのせいか心臓の鼓動が速くなっているのが自分でも十分に分かった。もし万が一アリソンに何かあったのならば、真っ先に駆けつける為に階段付近に陣取ったのだ。
 視線を床に落とし、耳を澄ます。アリソン達が入った部屋は背後になっている。
 を隔てた空間の音を耳で拾おうとしても無駄なことは頭では分かっていたが、どうしても気になった。
 ――何の相談だってんだ……。
 あの男、『ユベール・プランケット』に会った瞬間に、ラトフの中で警鐘が鳴った身の毛がよよだつような不快感。。
 何の狙いも無しに、あの男がここに現れるはずがない。
 あの蛇のように狡猾そうな目をした男が。
 ましてや、六年前の事件の関係者を訪れるなどありえない。彼にとって、あの日は忌々しい日であったはずだとラトフは考える。
 そもそも、ユベールに再び会うことになるとは思ってもみなかった。アリソンと同じ六年来の懐かしい顔で、パーティーの時に初めて顔を合わせた。旧知であることは確かだが、出来れば二度と会いたくない人間だった。
 彼は自身が言っていたように、かつて『エリノア・アーデンロード』の婚約者として名前が挙がった人物だ。それが決まったのは、ラトフが仕事で彼女の護衛を引き受ける前で、彼が顛末を知ったのはそれが結果的に解消されてからだった。
 人づてに聞いただけであるから、詳しい経緯はよく知らない。だが、ユベール側、つまりプランケット財団からの申し入れが最初だったというのは聞いていた。非常に熱心な打診であったらしい。
『アーデンロード』と言えば、数十年の繁栄の歴史を持つ名家。その年月の間に数多くの財産を作り上げていた為に、その熱心な打診も頷ける。
 アリソンやその他の従者達や、すでに亡くなった彼女の母親もその勧めに喜んだ。『ユベール・プランケット』と言えばその頃からその容姿、立ち振る舞い、家柄のどれをとっても欠点の無い、まさに評判の貴公子だったからだ。ただ、父親は渋りに渋っていた、とも聞いている。
 しかし、肝心の当事者であるエリノアは、初めて会った自身の婚約者候補の印象を立った一言アリソン達に残していた。
 ――あの目は好きじゃない、と。
 性格や振る舞いは、悪くはない。ただ、その奥に何か逸物を抱えているような目が、気に入らないとそう言ってのけたらしい。結局、父親が渋っていたこともあって婚約は解消になり、この話は終わりになった。
 それ以来、彼女はプランケット側による食事会の誘いも、立食パーティー等の招待も、一切首を縦に振らなかった。
 あの彼女が倒れた日、以外は。
 彼女の誕生パーティー。その日、ラトフは護衛の為に彼女の側近くにいた。ゆえに、エリノアに挨拶をしに来たユベールと一度だけ顔を合わせた事がある。
 その時に抱いた印象は、彼女と全く同じだった。
 ――危険な目をしてる。
 まさに獲物の首元を絡め取るような視線で品定めをしている様な、狡猾な輝き。ラトフは職業上、碌でもない人間に数多く会って来ていたが、今までにいないタイプの男であると直感できた。
 突然、こつ、と革の靴が近くの床を歩く音が耳に入った。ラトフは思考を中断して顔を上げ、音の方向へと振り向く。
 灰色の大柄な影。コートのポケットに両手を突っ込み、まるで足の裏から根でも張っているかのようにどっしりと立っている。鋭い眼差しを射抜かれている感覚。思わずラトフは呼吸を整え、警戒の念を強くする。
「……妙な気は、起こさんことだな」
 野太く太い声が、そう呟いた。
「そりゃ、こっちのセリフだデカブツ」
 ラトフは声の主に一瞬の一瞥をくれると、吐き捨てた。

 


      2.

 まず自ら扉を先に開け、アリソンはユベールを部屋の中へと促した。
 二階へ上がって、正面。通常の部屋よりも一回り程大きい部屋がある。この屋敷の主人が来客との大事な相談事や、あまり他人の耳には入れたくない内容の話をすると時に使う部屋だ。屋敷の人間は『相談室』と呼んでいる。
 今はその主人が不在だが、『ユベール・プランケット』程の来客を普通の応接に通すわけにはいかない。一応、アリソンもこの部屋への入室許可は取っているし、鍵の管理も彼の仕事だった。
 床には、淡く明度が抑えられた青の絨毯。部屋に入って真正面には、大の男六人は座れそうな広いテーブル、それを囲むように黒い革のソファが置いてある。その向こう側には、ガラス張りの扉が備え付けられ、外へと続くバルコニーへと出られるようになっていた。
 アリソンが手でソファを指し示し、どうぞと勧めると、ユベールは無表情に部屋の中を見渡しながらソファに腰を埋めた。
「コーヒーでもお持ちしましょうか?」
「いや、いいよ……すぐに終わるだろうからね」
 ユベールは言いながら、笑った。
 その笑顔を見ながら、アリソンは訳もなく不安感を覚えていた。
 この屋敷の主人に仕える執事でしかない自分に、一体何の用なのか。目の前に座る若者の狙いが、アリソンには全く読めない。張りついたような笑顔に、全て覆い隠されてしまっているようだった。
「……それで、私に何のお話でしょう? 私では大したことは……」
「君だから、この話をするんだ」
 ユベールが、若干語気を強める。
 彼の細められていた目元がすっと研ぎ澄まされる。アリソンはその視線に射抜かれるような錯覚を覚えた。
「先日、『ディルク・アーデンロード氏』が亡くなられたそうだね」
 つぶやくように言ったユベールの顔は、無表情。感情全てを何処かに落としてきてしまったような表情。アリソンはびくりと肩を浮かせて、その唐突に知らされた内容に驚きながら、思わず頷いた。
「丁度二日前の事で……あなたの所にも知らせが?」
「あぁ。それで初めて知ったよ」
「そうですか……」
 アリソンは力無く項垂れた。
 ――『ディルク・アーデンロード』。
 それはエリノアのたった一人の父親だった男の名前だった。
 アリソンよりも一回りも大きい身体に見合った厳格さ。しかしその中に娘や妻、アリソン達使用人も大事に扱ってくれるような寛大さもあった。だが、そんな彼も病には勝てなかった。
 傍から見ていて、エリノアと家族の関係は良好だった。彼女は真っ直ぐと歪まずに育ったおかげで父も母も素直に慕っていたし、彼らも娘に応えて愛情を注いでいた。
 アリソンは長く息を吐き出す。ずん、と心臓が数センチ下に落ちたような感覚を覚える。
 ――彼女は、父と母の死に目に会えなかったのだ。
 一つの死は多くの死を連想させてしまう。アリソンの脳裏に、エリノアの母親がよぎった。
 彼女が眠りに付いた後、彼女の母親も余程ショックだったのか身体を壊してしまった。元々あまり身体が強い方ではなかったが、宝物のように思っていた娘に起きた出来事が拍車を掛けてしまったようだ。
 そして、あの日の約二年後、今から五年前に彼女の母親は逝去した。
 六年にも及ぶ眠りは、大きな隔絶を生んでしまった。彼女の成長を喜び、そしてその身を常に案じていた存在。そんな存在が既に、この世にいない。
 もし彼女が目を覚まし、そしてそれを知ったならば、一体どう思うだろう。
 自分を置いて、自分勝手に回っていた世界を恨むだろうか。そして、別々の道を歩んでいるアリソン達を。そして、彼をどう思うだろう。
 彼女に外の世界と、何かかけがえの無い充実を教えてくれた『ラトフ・ハーリー』の事をどう思うだろう。
 やりきれない思いが、アリソンの胸を締め付ける。それに反応するように、胸の奥が煮立つような錯覚を覚える。
「そう……邪魔はいなくなったんだ」
 ――邪魔、だって?
 アリソンの全身を電撃のような衝撃が走る。
 彼は自らの耳を疑った。目の前座っている若者は、一体何を言った?
「何を……?」
「落ちた者は大人しく落ちたまま、より大きい存在に踏みつぶされるのを待てばいいというのに……彼には苦労させられたよ」
「何を言っているのです!?」
 アリソンがたまらずに、ユベールの言葉をさえぎる様に叫んだ。しかし、ユベールは全く気にも留めずに吐き捨てるように言葉を発する。
「なら、わかるように単刀直入に言おうか……」
 ユベールがコートの懐に手を入れながら、にやりと笑った。その笑顔を見た瞬間に、アリソンは背筋を何か氷のように冷たい物が駆け抜ける。
 ふと、エリノアが彼を強硬に拒絶していた事が思い出された。真正面に対すると、彼女のその心情が痛いほどわかった。
 やはりこの男は、何か違う。ただの名家の坊ちゃんではない。その目の奥に、常人には測れないどす黒く蠢く何かを抱えている。アリソンの心臓が、危険を告げるように速くなっていく。
「アーデンロードの全てを、貰いに来た」
 ユベールの言葉に、アリソンは鈍器で頭を殴られたかのような衝撃を受けた。
「……何ですと?」
「聞こえなかったのかい? いまや、アーデンロードの正統な後継者はいない。『エリノア・アーデンロード』はアーデンロード家の一人娘だ。その母親も父親も既にない」
 アリソンはその姿を呆然と眺めながら、頭に大量の疑問符を浮かべていた。それが分かっているならば何故、と。
 確かに、今は昔ほどの繁栄から遠ざかっているとは言っても『アーデンロード』という名は今でも各所で生きている。アリソン自身その家で勤めていたために、実際に多くの富、財産を蓄えられているのは重々承知していた。
 しかし彼はアーデンロードとは直接的にも間接的にも、血縁関係も何も無い。あるとすれば、彼はエリノアと元婚約者だったということだけだ。何をどうしようとも、その富を継承できる立場には無い。
 そこまで考えて、アリソンは大きく息を飲んた。
 ――まさか……。
 ユベールはいつの間にか椅子から立ち上がり、ゆっくりと部屋を歩き回っている。手を腰の後ろで組み、視線は床に敷かれた絨毯に落とされている。まるで、役者がする仕草のようにアリソンの目に映った。
「私もいろいろとやってみたんだよ。裏でも表もでね。彼と何度も会合を持ち、行き場の無い富や財産を私に譲れないかと打診した。他の誰かに接収されるくらいならば私が有効に利用するとね」
 アリソンは黙ったまま耳を傾ける。
「しかし、彼は最後まで拒否し通した。何故だと思う?」
「……」
 首だけをアリソンに向け、僅かに楽しそうな声色ユベールは尋ねる。アリソンは沈黙を以てそれに応えた。
「答えはね、今も眠りつづける娘の為だとさ」
「……!」
 アリソンは僅かに眉をあげる。
「何時目が覚めるか分からない娘の為に残しておく、と言っていたよ。自分では、彼女が目がさめるまで待っていてやることは出来ないからとね」
「旦那様が……」
 アリソンの頭に走馬灯のように思い出が浮かんできた。それと同時に、彼らしいとも思った。既に彼、『ディルク・アーデンロード』と会わなくなって久しいが、やはり娘への愛情は変わらっていなかった。
「……そして、待つことのできる人物に重要な物は預けてあると、言っていた」
 やはりか、とアリソンは顔を眉根を寄せた。ユベールの蛇の様な眼が、アリソンを射抜く。
 そう、彼の言う通りだった。
 アリソンは、『ディルク・アーデンロード』から重要な書類を預かっていた。二年ほど前に突然郵送で、彼の下に届いた代物だった。
 それは、遺言。そして、『エリノア・アーデンロード』をアーデンロード家の後継者とすると記された、権利証書だった。
「さて、答えを聞こうか。もし君がそれを渡せば、この場は引き上げるよ。あぁ、いや……そんな過程は意味がないな。どの道、頂いていくつもりだったからね」
 ユベールはすっと懐に手を滑らせる。
 ――このときの為に、旦那様は……。
 もしかしたら、彼は勘付いていたのかもしれない。このような事態が発生する可能性を。
 眠りつづける彼女を、尚も俗的な欲望で縛りつけようとする者の存在を。
 アリソンはふうっと、肺の空気を全て出してしまいそうな勢いで深呼吸をした。
「……断りましょう]
 真っ直ぐと怪しく輝く蛇の目を睨みながら、アリソンは静かに告げる。
 言った瞬間。
 エリノアの、輝く笑顔が浮かんだ。
「それは残念だ」
 ユベールが無感情に言った瞬間、部屋全体に乾いた破裂音が響き渡った。
 事件の始まりを告げる、音だった。

            前の話へ      目次へ      次の話へ

倉庫へ

TOPへ