〜『ステップ・オン・ザ・ガス』第五話〜
1.
アニーはある一枚の絵の前で足を止めた。
美術的に興味があるからそれを見たいと思ったわけではない。ただ、あちらの方から目に入ってきたというほうが正しかった。
白い床や壁が太陽の光を反射しなくなる時間帯になって、館内が昼の賑やかな様子とはまた違った様子を見せている。備え付けられた明かりが点等してはいるが、日中に比べると何処と無く暗く館全体をどこかひっそりとした雰囲気に包んでいた。
専門家では無いので、そういう雰囲気の問題なのかはアニーには分からない。
しかしある一枚の絵がまるで周りのあらゆる存在から浮き上がっているかのように、彼女の目に飛び込んできたのだ。
優に大の男二人か三人分はあろうかという長さの一辺。
そこに薄衣の四人の男女が描かれている。男と女が二人ずつで、何か得体の知れない球体を囲みそれを見下ろすように立っている。背景には殆ど何も描かれておらず白いままだが、ただ例外的に四人の頭上は僅かに空色が塗られていた。
アニーははっと、その絵に見とれている自分に気がついた。誰に見られているというわけでも無いのに、焦りを覚えて周りを目だけで見渡した。
ただ目に入ったからちょっと見てようと思っただけだったのだが、思ったよりも入り込んでしまったようだった。
そこに描かれている、不可思議だが何処か美しい世界に。
アニーは溜息をつき、自分の薄い金髪を撫ぜた。少し疲れているんだろう。仕事中は自分の体調に無頓着になりがちだった。そろそろ休憩を入れても罰は当たらないだろう。
そう思って絵の前から立ち去ろうと、踵を返そうとした。
すると彼女の隣に一人の男が立っているのが視界に入った。いや、男というより少年といった方が正しいようにアニーには見えた。くしゃくしゃした茶髪の下にある顔にはまだ幼さが見える。
何時の間にいたのか。アニーは僅かに目を見開いた。
そろそろ人も減ってきて、絵をじっくりとみるほとんど客もいなくなっている。その閑散とした中で隣に立たれても気付かないほど、自分は絵に見とれていたのか、とアニーは自分自身にも驚いていた。
「なぁ」
見られていることに気付いたのか、あちらから声をかけて来た。そしてアニーの返事を待たずに目の前にある大きな絵を指差した。 「これ何の絵だと思う?」
「え?」
「絵なのはわかってるよ」
思わず口から出てしまっただけで、そういうつもりで言ったのではないのだが。そう思ったが、アニーは口にはしなかった。
「……さぁ、わからないわ」
アニーは少し考えたものの、結局は思った通りに言う事にした。
これは何の絵なのか。言い換えれば何を描いた絵なのか。思えば、普通の人が絵を見るときにまず最初に浮かぶことかも知れない。
ごくあからさまに描かれた物もあれば、恐ろしく抽象的な物を描いていることもある。
そういう複雑な物が理解できないために、アニーは美術という物に余り親しみを感じられないのだ。
――昔からそうなのよね。
アニーは、あまり遠くない昔の記憶を思い出していた。家に飾ってあった名のある画家の作だという絵を見ても、結局何が描いてあるか分からなかった。
この絵もその類だと思った。四人の男女。紫に近いと言えなくも無いが、様々な色が混じっていて形容しがたい色の球体。何も描かれていない背景。
何かを暗示しているのだろう。それこそこれを描いた作者の心の中にあるものを。しかしいくら考えてもアニーには理解が出来ないだろう、そういう類だ。
「ふーん」
「貴方は何だと思う?」
「さぁ」
気の無い返事が少年から返って来る。アニーは若干眉根を寄せた。
すると、少年はすっと目線を下げてアニーを見た。初めて少年の目がアニーを捉える。
「お前便利屋か?」
「えぇ。そういう貴方もね」
「やっぱりなぁ。普通、槍なんて背負ってこんな所には来ないよな」
「それはお互い様」
アニーは少年の腰辺りに視線を流しながら言った。やはり同業者だから声をかけてきたのか。
少年はぐうっと勢い良く伸びをし、それとほぼ同時に欠伸をした。見ていると移りそうなほど大あくびである。
「俺は『ティルヴィング』の『ハンス・ターキンス』。そっちは?」
少年の欠伸混じりのこもった声を聞いて、アニーははっとした。
――『ティルヴィング』。
彼女と同じ列車に乗り、そして同じトレインジャック犯を倒した男。そう思い当たって、二重の意味で驚いた。
なるほど駅長の言うように、気合が抜けているといわれても頷ける。幼さの残る顔と相まって、覇気のような物は感じられなかった。
だが、どこか懐かしく、親しみやすい感じを受ける少年だった。腰に提げられた無骨な剣が不相応に見える。
「『アニエス・ディアフィールド』。長いから『アニー』でいいわ」
「なるほどアニーね。じゃ、そろそろ行くよ。いい感じで時間潰せたしな」
「そう、じゃあね」
アニーは薄く微笑んで応えたのを見ると、少年、ハンスはくるりと彼女に背を向けて歩き出した。
遠くなる背中を少しの間見送りながら、アニーは思わずあっと声を出していた。
目的の一つを忘れていたことにようやく今気がついたのだった。慌てて振り返ってみると、既にハンスの姿は小さくなってしまっていた。
しょうがない、とアニーは額に手を当てた。
そうしていると、ふと額縁の下に書かれている絵の題名に目が行った。そういえば、題名も作者名も見ていなかった、とその時初めて思い当たった。
――『はじまり』。
そこには、ただそれだけが書いてあった。
2.
「遅いぞ」
待ち合わせ場所に着いたハンスを出迎えたのは、同僚の不機嫌な声だった。
彼の遥か上の方にある時計に目をやると、指定の時間を十分ほど過ぎてしまっている。しまったな、とハンスは一瞬思った。思いの外絵と同業者に時間を取られてしまったようだ。
「いや、悪い悪い……お、館長さんどうした?」
ハンスはラトフに平謝りしながら、彼の隣にいる人物を見て意外そうに目を丸くした。ラトフの隣には館長、ハーティーが恭しく立っていた。
「はい。実は先ほど礼の品の展示準備が大方完了したのです。それで、お二方にも現物を見ていただこうと思いまして」
ハンスとラトフは揃って顔を見合わせた。
「お披露目ってわけですか」
「その通りです。お守りいただくに当たって、現物が何なのか分からないのも不便でしょう?」
ラトフは一瞬、すっとハンスに向けて目配せをした。何処か上機嫌に見えるハーティーはそれを気にも留めていない。
それに気がついたハンスは数回小刻みに頷く。大丈夫だろう、というサインのつもりだった。
「まぁそりゃそうですね……じゃ、お願いしますよ」
「わかりました。ではこちらへ」
ハーティーの言葉を合図に、二人は彼について歩き始めた。
気がつけば館内には鑑賞目的の客よりも便利屋の数の方が多くなっていた。
公的な手続きから呼ばれたであろう衛兵も玄関付近に陣取っている。
昼に比べて緊張感が高まり、異様な雰囲気になっているのがハンスにも分かった。
関係者のみが入ることのできる通路を進み、館長室を通り過ぎる。
三人とも殆ど何も話さずただ淡々と歩を進めていた。
それから数分すると或る部屋の前に到着した。
他の部屋の扉と比べると、その部屋は鍵が複数個ついていて頑丈なつくりになっている。扉自体もいかにも大事な物が閉まってある、と言うにふさわしい、鉄等で頑強に補強された仰々しい姿だった。
「どうぞ」
ハーティーが手際よく鍵を開け、二人を中へと促した。
まず入るや否や目に入ってきたのは、四角いガラスのケースに入れられ所狭しと並べられた無数の物体だった。美術全般に興味が無いハンスにとっても、この光景は圧巻だった。
「ここは保管庫になっています。特に彫刻など、大きさの小さいものを保管しています。そしてこれが……」
恰幅の良い館長は興奮したように、早足で一つのケースの前まで移動した。そこには縦長で他のよりも大きいケースに入れられた『それ』が垂直に固定されていた。
それはまさしく『剣』であった。
柄の端から先まで一本の筋が通っているように、すらりと伸びた剣。刃は良く磨かれているのか、キラキラと輝いて見えるようだった。
柄も過度な装飾などは無いごくごく一般的な十字型だった。
ハーティーがそれについてなにやら熱心に説明しているのを聞き流しながら、ハンスはラトフと並んでこの剣を遠目に眺めていた。
実を言うと、ハンスの予想していたものとは違っていた。
美術品として『剣』が展示されるのだから何か変わったところがあるのかと思ったが、別段何もないようだ。
よく手入れされていて、今すぐ実戦で使えそうなほどであった。確かにある種の美しさがあるかもしれない。 良く見ると、『ラヴィアンス』と作品名がケースに添えてある。
――『ラヴィアンス』ねぇ。
ハンスがそう心の中で呟いた瞬間。
彼ははっと息をのんだ。そして、自らの目を疑う。
腰まで届く薄紫の髪。白い装束。
それと同じくらい白い肌。
剣の入ったケースに寄り添う、女が見えた。
そして、ハンスをただ正面から見つめている――。
ハンスの思考は数秒間停止した。
まるで脳を含め自分の全てが止まっているかのように、ハンスには感じられた。
背筋を冷たい何かが走る。
女は一歩ずつ歩を進めてきた。
優雅な歩みだ。
着ている白い装束が、体が揺れる度に波のように揺れる。
ハンスはその髪と同じ紫色の瞳に見つめられたまま、動けなかった。
手も足も、全く機能しない。
瞬きすらままならない。
段々と二人の距離が詰まる。
ハンスの目の前まで、歩み寄ってくる。
その白い両手が彼の頬を――。
「ハンス!」
「!?」
ラトフの鋭い声にハンスは弾かれたように反応した。肩をびくりと跳ね上げ、顔をラトフに向ける。
こめかみに汗が流れているのが分かった。
ハンスは息荒く、周りを見渡した。
既に眼前に迫っていた白い手は、最初からなかったかのように消えていた。
「どうした? ぼーっとして」
ラトフは不思議そうな顔でハンスを見ていた。その隣でハーティーも同じような顔をしている。
そんな二人に大丈夫だと告げて、ハンスは大きく深呼吸をして荒い息を整え、もう一度ケースを見やった。
もはや何かがいる気配は無い。
ひっそりとケースに剣が入れてあるだけ。先ほどの光景となんら変わらなかった。
ハンスは額に手をあて、一際深く息をつく。
「なぁ」
ハンスが言うと、再び打ち合わせ染みた会話をしていたハーティとラトフは同時に振り向いた。
ラトフはなんだ、と言うような顔でハンスを見やった。
「そこに誰か、いなかったか?」
ハンスがそう言うと、ラトフとハーティーは怪訝そうに顔を見合わせ、同時に首を横に振った。
それを見たハンスは、そうだよな、とまるで分かりきっていたかのように呟いた。
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