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~『スニーク・アップ・ザ・スニーカー』第一話~
1.
ハンスは事務所の床に座り込んで、じっと目の前の金属の塊を見つめていた。
手には濡れた布が握られている。
自分の顔が映るのではないか、という程に綺麗だ。もともと曇り一つ無い程綺麗にされていた上に、手に入れてから殆ど使用する機会も無かったためだ。
歪みなく真っ直ぐと伸びる剣身。鋭角になった切っ先。まるで十字を象る様な、鈍い銀色の柄。よく見ると、剣身と柄が丁度交差する場所に赤く小さな石が埋め込まれているようだった。柄頭には丸い球状の意匠が施されているのが見て取れる。
自らの手で磨き終えた剣をひとしきり眺め、ハンスは満足げに唸った。
「熱心だねぇ」
よく通る低い声がハンスの前方から聞こえてくる。
そこには二つのデスク。一つは大きめで、玄関に正面を向けるように設置されている。もう一つは少し離れた位置で側面を玄関に向けていた。
ハンスが向き直ると、声の主は大きめのデスクに陣取って優雅と言える仕草でコーヒーを飲んでいた。
黒い髪を後ろに撫でつけた、初老の男。開襟の白いシャツの上に黒い外套のような服を方から羽織り、ハンスを見て笑っているその顔には無精髭が点々と見受けられる。左目には大きな傷があり、右目だけを細めて笑顔を浮かべている様に見えた。
彼こそが、『ティルヴィング』の
「まぁ、せっかく貰ったんだしなぁ」
ハンスはそう言いながら立ち上がり、剣――『ラヴィアンス』を腰の鞘に収めた。そして転がるようにぼふんとソファに座り込んで、伸びをする。長時間座っていたため、体全体が縮こまっているように思えた。
包みを抱えた女がここに現れ、『ラヴィアンス』を半ばハンスに押しつけるようにして置いていってから二週間が経っていた。ラトフとアニーにはほとんど目もくれずに。
自分はそれの製作者の使いとだけ名乗ったため、ハンスも居合わせたラトフとアニーも、彼女の本名を知らなかった。
それ以来、この剣はハンスの物となった。今日もこうして、前回の反省を生かし入念に手入れをしているところだった。
そしてハンスは思う。
この剣を作った、あるいは関係した人間ならば、知っているのではないかと。
――あの、紫色の女の正体を。
「……ところでマスター。ハロルド氏から書簡が届いています」
もう一つの声がした。マスター用のよりも小さいデスクの方からだ。
主は声と共にラナードのデスクの横まで移動し、白く小さな手で一枚の書類をラナードに突き出す。
「そうかリネット君。なら早速焼き捨て……っ!? 冗談だって、読むよ」
ラナードは言葉を言いかけた途中で詰まり、頬を若干引き攣らせながら差し出された書類を受け取った。
足を踏まれたな、とハンスはデスクワーク嫌いの組合長の身に起きた事を直感した。ハイヒールで踏まれるのは痛いよなぁ、と考えていると自分まで足の甲が痛む。
赤みがかった茶髪に、黒縁の眼鏡。整った顔立ちで、きりっとした目元に彼女の性格が表れている。女性用のクリーム色のスーツをきっちりと着こなし、口を真一文字に結んでいる。
「まだまだ目を通していただくものはありますよ。一つ残らずお願いします。良いですね?」
組合長秘書『リネット・クローヴァー』は厳しい口調で言って、デスクに積まれた書類の束を整えにかかった。
――おお、怖ぇ。
とハンスは思った。口に出したらまずいことなりそうなたために、心の中で。
彼女は組合長(マスター)が直々にスカウトしてきた秘書で、事務の殆どを引き受けていた。『ティルヴィング』の会計から他ギルドとの連携など担当する業務は多いのだが、驚くほどの効率で仕事を片付けていく。
正直、自分には一生かかっても出来ない芸当だとハンスは思った。
何となしにくるりと事務所内を見渡す。
殺風景な部屋の中にはハンスを入れた三人しかいない。
アニーはこれから『ミークネス』を拠点として活動することに決めたらしい。
それに際して、『ティルヴィング』と業務提携することを申し出、ラナードが快諾して今に至っていた。
「なぁ、二人ともどこ行った? 仕事か?」
「聞いてなかったのかい? あぁ、君は寝てたなそういえば……全く君はよく寝るよねぇ」
そういえば、とハンスは思い出す。
剣の手入れをする前は、睡眠の世界に旅立っていたのだった。おかげで今はすこぶる快調なのだが。
「アニーさんは買い物に出ています。まぁ、依頼もありませんから、暇つぶしに行ったのでしょう」
書類から顔を上げずにリネットが言った。
「ラトフは?」
「彼も出ています。行先は……」
ハンスが聞くと、リネットは言葉に詰まったように黙り込んだ。
珍しいこともあるな、とハンスは首を傾ける。
「あぁ、きっとそこだろう。最近はあまり行ってなかったみたいだからね」
それとほぼ同時に、ラナードが何処か感慨深そうに呟いた。目線は遠くへと流れる。
「……そこ?」
ハンスは間の抜けた発音で呟いた。
2.
ある昼下がり。
ほんの最近まで猛威を振るっていた夏の日差しが、ようやく落ち着いきていた。集まる人の間を吹き抜け、自分の肌を打つ風も幾分涼しく感じられる。
美術館の事件から、二週間程が経過していた。
あの時は夏の色が濃い気候が『ミークネス』の町全体を包みこんでいたものだが、だんだんと季節の移り変わりが訪れつつあるようだ。
取り巻く季節が変わると、その時期にあったものはまるで遠い過去のことのように思えるものだ。
ラトフはそう思いながら、商店街を歩いていた。涼しくなってきたためか、膝まで丈がある黒いジャケットを羽織っている。
しかし買い物が目的で来たわけではない。ここを抜けた先に野暮用があるのだった。
『ティルヴィング』の事務所と大通りを最短距離で行こうと思うと、どうしてもその間に位置するこの商店街を通らなければならないのだ。
張りのある声が売り込んでいる店には顔を向けずに、ただ淀みなく歩を進めていく。石畳で出来たゴツゴツしている道の感触を足裏に感じる。
そのまま商店街を抜ければ、駅へと繋がる大きな通りに出る。もう彼の正面には、茶色い佇まいで『ミークネス』の名を冠した建物が見えていた。そこまで行けば、もう目的地は肉眼で確認できるほどになる。
この通りは十字路になっている。彼は駅へは向かわずに、右手へと折れる。
――見えてきたな。
ラトフは心の中で呟いた。
煉瓦作りの壮厳な外観。中央に高い塔のようなものがそびえ立ち、その天辺には時計が備えられているのが遠目でも分かった。その中央塔の左右にせり出すように、建造物が長々と連なっている。
――『ミークネス総合病院』。
それが彼の目的地だった。
3.
病院内は混雑していた。白い服に身を包んだ職員達がカルテを片手に忙しく走り回り、受付には絶えず病状を訴える患者が並んでいる。
外から見た印象とは異なり、簡素な作りのロビーは、自分の順番を今かと待つ人間達が来客用ソファを占領していた。
いつもここは混んでるな、とラトフは列に並びながら思った。だが、ここは『ミスティル大陸』最大規模の病院である。それも仕方がないかもしれない。
「次の方どうぞ」
やっと自分の順番になり、受付の女性が声を掛けてくる。
「入院してる患者に面会を願いたいんだが……」
ラトフは若干丁寧な口調で切り出した。
「面会ですか。患者様のお名前は?」
「エリノア……『エリノア・アーデンロード』」
ふと、言ってからラトフは名前を直接呼んだことが無いな、と思った。
女性は書類を座っている机から取り出し、パラパラとめくる。
「エリノアさま……あぁ、はい畏まりました。それでは、希望者様のお名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「『ラトフ・ハーリー』です」
「ラトフさま、と……では、奥の階段から三階の305号室どうぞ」
手元の書類に素早く何かを書きこむと、女性は笑顔で言った。ラトフは無表情で頭を下げ、女性が指し示す階段に向けて歩きだす。
――聞かなくても場所は分かってるんだがな……。
ラトフは声に出さずに呟いた。
白い大理石か何かで出来た階段をゆっくりと上がる。途中、小奇麗なコートを羽織った紳士風の男がすれ違いざまに小さく頭を下げてきた。
同じような臭いを感じたのだろうか。ラトフは遠ざかる男の背中を見やりながら思った。 彼女――エリノアに会いに来るのは実に一か月ぶりになる。美術館の件の事後処理や、その後のごたごたなどがあったおかげで、なかなか足を運べなかったのだ。
毎年、少なくとも一か月に一度はここに足を運ぶのがラトフの日課になってしまっていた。
「もう、六年か」
ラトフは誰もいない通路に向かって呟いた。
階段で三階にあがり、白く細長い通路を直進する。南側に設置された丸い窓から昼下がりの太陽の光が射し込み、光が当たっている床が輝いているように見えた。
突き当りを左に折れて、すぐ右手。ラトフはそこでぴたりと足を止めた。
無機質に佇む、白い扉が彼の目に入る。扉の最上部には、305と刻まれていた。
ラトフは右手の甲で、こんこんと軽くノックした。やってから、小さく苦笑する。
返事が無いのは分かりきっているのに。
彼女は返事をするどころか、今の音を聞いてもいないだろう。毎回のように、ただ白いベッドの上に居るだけだ。
ラトフは扉を開けようと、右手をノブに掛けようとした、その時。
彼の鼻先で、自然と白い扉が遠くなって行った。向こう側に居る人間が開けたのだ、と気づくのに数瞬かかった。
誰かが、扉を開けた。
ラトフの頭に、疑念が浮かぶ。それと同時に、ある一つの可能性が彼の頭を打った。
――まさかあいつが起きて……。
「おや……あなたは……」
部屋の中から、声が聞こえてきた。柔らかい調子の男性の声。僅かに驚きが混じっている様に聞こえた。ラトフはその声を聞いて初めて、自分が驚いて硬直していることに気がついた。
「驚かせてしまいましたか。申し訳ない」
「いや、誰もいないと思ったもんで……」
声の主が申し訳なさそうに萎んだ声を出すものだから、ラトフも少し戸惑った声で応えた。
年齢は四十歳から五十歳程。淡い紺色のスーツを着込んだ紳士のようだった。灰色の髪が綺麗に後ろに撫でつけられ、口元にも頭髪と同じような灰色の髭が蓄えられていた。
どこか、見覚えがある。
ラトフはその紳士を見て思案した。
「……お久しぶりですな。『ラトフ・ハーリー』さん。随分と大きくなられた」
その言葉を聞き、ラトフの頭にまるで雷に打たれたかのような光が射した。あっ、と思わず声に出す。
それと同時に、思考が過去へ飛ぶ。
――そうだ、この人は……。
「六年経ったんだ、当然だろうさ……あんたも頭が灰色になっちまってる」
一目じゃわからなかった、とラトフは冗談めかして言った。
彼と初めて会ったのは六年前だ。ラトフの人生で唯一にして、最大の後悔が生まれた一日。
ラトフの記憶の中の彼は、頭髪は黒で、もう少し全体的に若かった。しかし柔らかな調子のしゃべり方と、紳士然とした態度は彼の印象そのままだった。
懐かしいな、とラトフは呟いた。
「久しぶりだな、アリソンさん」
「覚えていただけて光栄ですな」
ラトフが言うと紳士、『アリソン・ホフマン』は微笑み、右手を差し出してくる。ラトフはそれをゆっくりと握り返し、握手をした。
手を放し、アリソンはどうぞ、とラトフを中へと促す。ラトフは頷き、白い清潔感の溢れる部屋へと足を踏み入れた。後ろでアリソンが扉を閉める音がした。
入るとすぐに薬品特有の匂いが鼻についた。壁から医療用具が入れてあるらしい戸棚、ベッドに掛けられているシーツまで白一色。自分の来ている黒いジャケットや、アリソンの紺色のスーツが場違いなように思えた。
大の男が二人入るとあまり余裕がなくなる、あまり広くない部屋。殆どが患者を寝かせておくベッドに面積を割いていた。
大きめなベッドの脇には棒が数本立っており、その上部には袋に詰められた液体がぶら下がっている。その袋からチューブが伸び、ベッドに眠る患者へと繋がれていた。
ラトフは黙ってベッドを見下ろしていた。
ふと顔を涼しげな風が撫でる。アリソンが換気の為に窓を開けていたようだ。その後で、アリソンがゆっくりとした動作でラトフの隣に並ぶ。
赤茶色の長い髪。目を固く閉じた、青白い顔。両手は掛け布団から出ており、投げ出されるようにベッドに垂らされていた。
すーすー、と弱々しい吐息が青白い唇の間から漏れる。それこそが、彼女が今でも生きている証だった。
そう、彼女、『エリノア・アーデンロード』は生きている。
しかし、目を覚まさないのだ。六年間、一度として。
この姿を見るのは何度目だろうか、とラトフはぼんやりと考えた。
「ここへは何度か居らっしゃる?」
ラトフの隣に立つアリソンが呟いた。目線は眠るエリノアから離していなかった。
「ん? あぁ、何度かな。月に一回は来てるよ」
「そうですか……エリノアお嬢様も喜びましょう」
アリソンはにっこりと目を細めて言った。
――まだお嬢様、か。
ラトフは小さな声で呟くと、胸の奥がざわついたように感じられた。そこにある心臓が何者かにぐっと握りつぶされているような錯覚が頭を霞める。
それは後悔だと気がつくのに、実に六年の歳月を経たのだった。
「アリソンさん、今は何してるんだ?」
そのざわつきを隠すように、ラトフは尋ねた。
「私ですか。今は『クエルティ』の方のある屋敷に目を掛けていただいておりますね」
アリソンは淀みない口調ですらすらと応えた。
『クエルティ』は首都『ミークネス』からずっと北に位置する町だ。『ミークネス』から列車が通っており、大陸の中ではそれなりの発展を遂げてきた。だが、大陸のほぼ最北端に位置する上に山岳地帯が近くに広がっているおかげで、極めて厳しい寒波が到来することで有名な町だった。
「やっぱり執事を?」
「えぇ」
頷くアリソンを見てやっぱり、とラトフは呟いた。物腰も柔らかく、細やかな気配りも行き届いている。彼ほど執事にぴったりな人間はいないとラトフは思っていた。
話している間も二人の目線はベッドの上から動かなかった。決して相手の顔を見ずに、声だけで会話をしていた。
まるで、じっと見守るように。
「……そういえば」
アリソンが、ふと思い出したように呟いた。
「まだ便利屋は続けておられるので?」
「まぁね……他にやりたいことも出来ることも無いしな」
問いに、ラトフは軽く笑って答えた。アリソンはそうですか、とどこか平坦な声色で呟く。
「……実はですね。もしこの場で貴方にお会いできなくとも、元々会いに伺う予定でこの町に来たのです」
アリソンは先ほどの柔らかい語調では無く、緊張した面持ちで続けた。初めて、彼女から目線を逸らし、ラトフの方に顔を向ける。
ラトフの方もその様子から何か異常な空気を感じ取り、顔をアリソンに向けた。
「依頼したい案件が、ございます」
風が、一際強くラトフの顔を撫でた。
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